前方後円墳とみられていた飯田市松尾上溝の「羽場獅子塚古墳」(飯田市史跡)が、市教育委員会の発掘調査で前方後方墳の可能性が高いことが20日、分かった。県立歴史館(千曲市)によると、前方後方墳なら県内7基目、飯田下伊那地方では2基目。専門家は東海地方からの影響を示す証拠になるとみており、飯田市教委が調査を進める。 市教委によると、大正時代にはこの古墳の存在が確認されていたが、これまでは前方後円墳とされてきた。何世紀に造られたかや、誰を埋葬したのかは分かっていない。 市教委は昨年10月~今年2月の調査で、前方部に方形の墳丘とみられる積み石や墳丘の周囲に掘られた「周溝」を確認。今回の調査では、後方部の墳丘があったとされる部分で、直径20~30センチの石が直角に並んだ場所を2カ所で確認。同じ角とみられ、双方は数メートルほど離れている。 市教委によると、前方後円墳なら後方部は弧を描くような石の並
長野市教育委員会は18日、同市松代町の松代城跡近くの長野電鉄旧屋代線跡地で、江戸時代に造られたとみられる「三日月堀」や「外堀」跡などが確認されたと発表した。絵図などの資料で堀などがあることは知られていたが、これまでは線路があったため詳細な位置は分かっていなかった。市教委は「松代城の全体像を正確に把握するための貴重な手掛かり」(文化財課)としている。 城跡南東側一帯は、今秋に同地区で開く「松代藩真田十万石まつり」の臨時駐車場として整備される。使用前に城郭跡の範囲を確認するため、市教委が今月1日から19日までの日程で調査している。 市教委は幅1・5メートルほどの試掘溝を5カ所、計約140メートル掘って調査。松代城には、前身の「海津城」を築城した武田家特有の構造とされる三日月のような形の「三日月堀」が2カ所あるとされてきた。今回確認したのは城跡東側の松代駅ホームすぐ脇。他に、線路があったため
日露戦争(1904~05年)に兵士として動員された飯田市出身の加納清作さんが、ロシアの地で1905年5月に捕虜となってから翌年2月に帰国するまでを記した日記が、同市江戸町にある清作さんのおい、加納信雄さん(83)宅で6日までに見つかった。捕虜になった心境を「精神的自殺」と記したり、日本から捕虜への援助が届かないことに憤ったりと、率直な思いがつづられている。日清・日露戦争に詳しい仏教大歴史学部の原田敬一教授(日本近代史)は「日露戦争でロシアの捕虜になった兵士の回顧録はあるが、日記はこれまで目にしたことがない」とし、重要な資料だと話している。 信雄さん、智恵子さん(78)夫妻によると、清作さんは帰国し、同市銀座通りで反物店を営んでいた。45年に63歳ぐらいで亡くなったという。日記は昨年5月ごろ、夫妻の自宅の本棚から見つかった。縦14・5センチ、横10センチ、約140ページ。3~5ミリ角の小さ
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