エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
詩 : avarokitei84のblog
賢治は「悟って」いたかor「菩薩」を自負していたか? …法華経は何を説いているのか… 9 方便品第二... 賢治は「悟って」いたかor「菩薩」を自負していたか? …法華経は何を説いているのか… 9 方便品第二、舎利弗の疑問に答える釈迦の偈を読む前に、また、思いついたことを述べたい。 もちろん、思いつき的推論であります。 テーマは、賢治は田中智学を何と見たか? 賢治は、大正10年の出奔上京の頃まで、かなり本気で田中智学を日蓮の生まれかわりと信じようとしていたのではないか。 前々回の、第四次延長の話しの中でチラッと触れた日蓮の御書「如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄)」に次のような文章があったのを思い出して閃いたのです。 「一年前の文久九年(1272年)にしたためられた開目抄が、日蓮大聖人こそ末法下種の御本仏であることを示されており、人本尊開顕ニンホンゾンカイケンの書といわれているのに対して、(観心)本尊抄は、事ジの一念三千である南無妙法蓮華経が成仏の究極の本尊であることを明かされており