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パチスロまでの苦難時代とコナミ : 【パチンコ業界酔いどれ漂流記】
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パチスロまでの苦難時代とコナミ : 【パチンコ業界酔いどれ漂流記】
10月30 パチスロまでの苦難時代とコナミ 過去に書いた「相関図」から+αで。 前回も書いたように、新法... 10月30 パチスロまでの苦難時代とコナミ 過去に書いた「相関図」から+αで。 前回も書いたように、新法(風営適正化法)施行までは都道府県レベルでの許可申請で、新遊技機であるスロットへの対応と許可基準はバラバラだった。申請を受付けない県公安委員会もあった。日電協20年史によれば、「ボーナスゲームも含めて600枚出せる地域もあれば800枚出せるところもあった。メダル料金も1枚20円、10円、7円と基準の統一性に欠けていたのが実態」。旧法(取締法)時代はもちろん「回胴式遊技機」ではなく法的には「その他の遊技機」で、その当初のタテ型オリンピアマシン設置台数は7000〜8000台。これが今のパチスロタイプになりパチンコとの併設が進む昭和60年には108000台強にまで伸びる。 しかしこのスロット揺籃期においては、その許可基準の不統一、パチンコとは異なるメカ構造でホールの知識もなかったこと、もともと