エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
近世における陽明学: 忘却散人ブログ
わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日本... わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日本近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 中野三敏先生が和本リテラシーの回復を唱えるのは、活字になっていない書物群に日本の思想・文化をとらえる重要なものが見出せるという、博覧ならではの経験知によるところが大きい。 近年、近世の思想の柱は朱子学ではなく陽明学だったのではないかという、挑発的な説を提出しているが、これも活字になっていない本から拾ってきた用例が少なくない。たしかに知識人というものは、新しい思想に敏感であること、いつの時代も同じであろう。「近世に於ける李卓吾受容のあらまし」(『国語と国文学』2011年6月