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映画『自殺サークル』評-わたしが「わたしの関係者」ですらなくなったある日の死 - 叛逆郊外#6 → 自虐時計#9
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ファシズムとしての自殺症候群 「さあ、ここへ飛べ!」 人間は本来、死の不安(あるいは生の不安)とい... ファシズムとしての自殺症候群 「さあ、ここへ飛べ!」 人間は本来、死の不安(あるいは生の不安)というような極限状態、あるいは緩やかな絶望の連続に置かれると、自殺か他殺という二極化へ向かうとわたしは考えています。これは個人の心理状態だけでなく社会の動向にも応用できそうで、いま日本社会が右傾化していっていますが、右傾化というのは社会が他殺に向かうベクトルだと思うのです。弱者叩きやステレオタイプな民族差別は経済構造の変化やモラルハザードによるアノミー(無秩序化)によって、自己不安に駆り立てられた人間の、自己脆弱感の吐露のようなものだとわたしは考えています。自己脆弱感の吐露といったものが社会の動向において自殺のベクトル向かうとどうなるかといえば、カルトの勃興だとかネットを媒介にした集団自殺という感じで現れるのでしょうか。 右傾化だとか国粋主義というのはしょせんは根っこの弱い愚弄な人間たちの個々のエ