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脱構築とプラグマティズム - short hope
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脱構築とプラグマティズム - short hope
「デリダは私的アイロニストか公的リベラルか」という議論をおさらいしたくなって、『脱構築とプラグマ... 「デリダは私的アイロニストか公的リベラルか」という議論をおさらいしたくなって、『脱構築とプラグマティズム』を再読。1993年5月にパリの国際哲学カレッジで開かれた同名のシンポジウムの記録。薄い本なのであっという間に読めてしまうけれど、なんとも噛み合わない議論にもやもやする。複数の信念=価値が衝突しあう競合状態は私的領域に追いやるべきだ、なぜなら信念とは偶然的に形成されるものであって、それ以上の根拠を有していないのだから。討議によって調停可能な議題のみを扱うことが公的領域における政治の領分であり、私的領域でのアイロニーに専心する『弔鐘』や『絵葉書』でのデリダ的態度に政治的意義を認めることはできない。そう主張するローティに対して、デリディアンであるクリッチリーは、ローティの設定する私的領域と公的領域の区別そのものが疑問である、私的領域における信念はつねに公的領域でのそれに汚染されているのだから