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賢者と愚者の意味が逆転した中流下流社会|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記
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賢者と愚者の意味が逆転した中流下流社会|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記
「バカ」も「賢い」もいくらでも恣意的に解釈できる言葉だ。 「女。京大生の日記。」7月30日のエントリ... 「バカ」も「賢い」もいくらでも恣意的に解釈できる言葉だ。 「女。京大生の日記。」7月30日のエントリーに端を発した言論‘フィッシング’フェスティバルで明らかになったこと。それは、古来「賢い」と思われてきた人たちが、現代では「バカ」呼ばわりされてしまうという現実である。もちろん、それが世界の総意だなんていうつもりはない。ただ、日本の学生や社会人の中に、結構当たり前に浸透している価値観であるような感触はある。どういうことか。元来、学問とは生産性を求められるものではなかった。生産は生産者の仕事で、いわゆる「賢い」人たちがすることではなかったからだ。それは端的に百姓や猟師や漁師の仕事だった。 学問は特権階級のもので、賢者とは生産者たちの幸福に「学」をもって貢献する人のことだった。宗教も科学も未分化だった時代には双方の要素を併せ持っていたかもしれない。ある種の知恵は生産者たちに生産性向上を齎しもした