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対馬丸メモリアルデー: 極東ブログ
1944年の8月22日、那覇港から出た学童疎開船「対馬丸」が、鹿児島県悪石島付近で米海軍潜水艦ボーフィン... 1944年の8月22日、那覇港から出た学童疎開船「対馬丸」が、鹿児島県悪石島付近で米海軍潜水艦ボーフィン号の魚雷により撃沈された。氏名判明者に限定すれば、学童775人を含む1418人の民間人がこの攻撃で殺された。僅かに59人の学童は救出された。この殺戮については日本では当時機密ということになったが、県民の多くは戦中この惨劇を知っていたようだ。 それから60年を経た今日、この惨事を追悼すべく、那覇市若狭の遭難学童慰霊「小桜の塔」近くに「対馬丸記念館」(参照)が開館されることになった。 なぜこれほどの惨事になったのか、なぜ米軍は民間人を大量殺戮したのか。しかし、冷徹に歴史を見ればそれほど不思議はない。当時187隻の疎開船により約8万人にもが安全に疎開できていた。また、米軍はすでに商船も攻撃対象としていた。対馬丸は商船と見られていた。 当時、潜水艦ボーフィン号で魚雷発射任務に就いていた米海軍下士