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坂のある非風景 片恋が無害なはずがない
かじりかけのメロンパンがあったはずだと探す日がある。まるで昨年までの「生きかけ」の人生の続きを生... かじりかけのメロンパンがあったはずだと探す日がある。まるで昨年までの「生きかけ」の人生の続きを生きるみたいに続きのメロンパンをかじる、あるいはただ捨てるためにだ。そうしてすでに捨ててしまったかもしれないものを捨てるためにそれを探す日がある。 たとえば「すべてを与えているのになにも与えられない。何も与えられていないのにすべてを受け取っている。」という片恋の場面場面では何もかもが捨てられ何もかもが拾われている。ただ「ごみだから捨てるのではなく捨てられたものがごみである」にすぎないごみにまみれる片恋の栄光の日々を追って暮れつづけた日々だけがある。 片恋もまた政治的課題だと言ったら私はマルクス主義急進派である。でももしふたりの悲しい関係はどこまでもふたりの問題にすぎないと言ったら私は伝統的リベラル民主主義者だ。どちらの私も私は気にしない。でも政治的な問題から個人の領域を排除するその手つきがすでに決