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渋沢平九郎の最期
慶応4年(明治元年・1868)1月3日、京都・鳥羽伏見の戦いで天下の形成は逆転する。幕府軍は薩長... 慶応4年(明治元年・1868)1月3日、京都・鳥羽伏見の戦いで天下の形成は逆転する。幕府軍は薩長連合軍に敗れ、全国の諸藩は錦の御旗を掲げる新政府軍(官軍)を支持しはじめた。新政府はさらに絶対権を得るために1月7日に慶喜将軍追討令を出して戊辰戦争が開始される。 そして4月11日、江戸城はついに無血開城となるのだが、これに不満な幕臣たちは続々と脱走していった。 そんな中、一橋家では将軍・慶喜の汚名を晴らそうと、渋沢成一郎や天野八郎らによって「彰義隊」が結成された。だが上野戦争の直前、武力衝突を主張する強行派と決別した渋沢成一郎は、尾高新五郎と新たに「振武軍」を組織し、田無・西光寺にその本陣を置いた。(渋沢成一郎は慶喜の幕臣・渋沢栄一の従兄弟、尾高新五郎(惇忠)は、渋沢栄一の義兄。)そしてその振武軍の参謀を務めたのが渋沢平九郎(昌忠)である。(尾高新五郎の末弟で、前年に渋沢栄一の仮養子となって
2009/06/11 リンク