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『「始まりの国」淡路と「陰の王国」大阪 古代史謎解き紀行 』 - HONZ
大阪を読み解くための最後のキーワードは、「馬」だと思う。生駒山の西側や淀川の岸辺には、渡来人が多... 大阪を読み解くための最後のキーワードは、「馬」だと思う。生駒山の西側や淀川の岸辺には、渡来人が多く住み、牧を造り、馬を飼っていた。そんな大阪の馬飼いが、一度歴史的な大仕事をしたことがある。越(こし)の男大迹王(おおどのみこ)〔継体天皇〕を畿内に連れてきたのは大伴氏だが、渋る男大迹王を説得したのは、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)だった。河内で馬を飼育する者たちのトップに立っていた者だ。なぜ、馬を飼う者たちが、越の王を求めたのだろう。 馬と聞けば、「さては戦争に用いたのだな」「ひょっとして天皇家は騎馬民族の末裔か」と、想像してしまうかもしれない。しかし、「大阪の馬」は、流通に用いられたのではなかったか。というのも、海の民と馬は、切っても切れない関係にあったからだ。 たとえば九州の五島列島の住民は、縄文の海人(あま)の末裔だが、『肥前国(ひぜんのくに)風土記』には、馬に乗るのが
2018/11/07 リンク