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今川の人質となる家康を織田へ送った戸田康光 その後どうなった?
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今川の人質となる家康を織田へ送った戸田康光 その後どうなった?
人生の大半を「忍耐」で過ごした徳川家康。 その始まりは、幼少期に織田家や今川家で人質として過ごした... 人生の大半を「忍耐」で過ごした徳川家康。 その始まりは、幼少期に織田家や今川家で人質として過ごしたことでしょう。 当初は今川家に人質として出される予定でしたが、いつの間にか織田家へ送られてしまい、数年間過ごすのです。 その張本人が戸田康光――。 三河の田原城(田原市)を本拠とする武将であり、当時は駿河の大名・今川の配下にいながら、突如、裏切って家康を織田へ送りました。 康光はなぜそんなことをしたのか? 天文十六年(1547年)9月5日に亡くなった戸田康光の生涯を振り返ってみましょう。 今川や松平、織田に挟まれて戸田家は、康光の祖父の代に渥美半島を統一するなど、当初は東海地方の一エリアで勢いがありました。 しかし、その後は近隣の松平家や今川家の圧迫を受け、松平家に従う状態。 松平清康(家康の祖父)の死後、松平家が今川家に従ったため、陪臣のような形で戸田家も今川の傘下に収まりました。 なんだか