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久保建英がいることで視える世界。カズを見て校庭を走り回ったように。(中野遼太郎)
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久保建英がいることで視える世界。カズを見て校庭を走り回ったように。(中野遼太郎)
視座、という言葉があります。 ビジネス関連の書籍で頻繁に見かけるような言葉を冒頭から使い始めた僕を... 視座、という言葉があります。 ビジネス関連の書籍で頻繁に見かけるような言葉を冒頭から使い始めた僕を見て「賢いフリをするな」という幼馴染みの顔が浮かびますが、少しだけお付き合いください。 辞書で『視座』という言葉を引くと「物事を見る姿勢や立場」と書かれています。これは『座』という漢字が示すように「世界をどの座標(高さ)から切り取るか」ということを指していると僕は捉えています。 ひと昔前までこの言葉は(特にサッカーの世界においては)「あいつは意識が高い、意識が低い」という、より大きく抽象的な表現に包括されていたと思いますが、そこから『視座』という言葉を抽出することによって、その言及対象は「行為」から、その「視(み)ている先」へとすることができます。 本質的な差を生み出すのは、意識の高いアクション(習慣)そのものではなく、その行為をどこに辿り着くためにしているのか、という部分です。 「意識が高い