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超越的法/超越論的法
表題の「超越的法/超越論的法」とは、ラカン的には「大他者の大他者はある/大他者の大他者はない」と... 表題の「超越的法/超越論的法」とは、ラカン的には「大他者の大他者はある/大他者の大他者はない」ということ。それは上のドゥルーズ=カントが示している内容でもある。 最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa、PDF) 我々はラカンの断言「象徴的大他者の大他者はない」を思い起こす必要がある。この意味は何よりもまずなによりも、象徴的大他者はどんな〈他〉の外部の支え(〈父の名〉の普遍的法)によっても正当化されないということであり、象徴界が非全体 pas-tout である限り、象徴界に関するリアルな〈他者性〉はもはやあり