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貞明皇太后が侵略主義者、強硬派の首魁だった件
>四五年六月、終戦の方針を立てた昭和天皇は貞明皇太后の説得に臨んだ。実母と会う前には緊張感から嘔吐... >四五年六月、終戦の方針を立てた昭和天皇は貞明皇太后の説得に臨んだ。実母と会う前には緊張感から嘔吐し、面会後はまる一日寝込んだ。まさに大事業であったが、それなしに日本は終戦への道筋を進むことはできなかったのである。 皇太后は皇族内で最大の影響力を持つ上、好戦派・強硬派の最右派であった。皇太后を説得できなければ、終戦交渉もできないという、いかにも中世的なお話だが、帝政とはそういうものだろう。 ロマノフ王朝のニコライ二世で言えば、アレクサンドラ皇后がそれに相当した。 戦後の東京裁判によって皇族が不起訴に終わり、その後の歴史改竄によって、一般には「多くの皇族が終戦工作に奔走した」と信じられているが、日中・太平洋の開戦時に最も好戦的だったのもまた皇族であった事実はきれいに「漂白」されている。 恐らく例外的なのは三笠宮だろうが、最若で陸軍内での地位も低かったため、ほぼ影響力は無かった。