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世界の戦争・歴史ブログ イスタンブール誕生 ・ 新帝都の建設
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みなさんこんにちは。 1453年5月、オスマン帝国皇帝メフメト2世は十数万の大軍をもって、およそ1... みなさんこんにちは。 1453年5月、オスマン帝国皇帝メフメト2世は十数万の大軍をもって、およそ1100年続いたビザンツ帝国(東ローマ帝国)の帝都コンスタンティノープルを総攻撃し、1ヵ月半の死闘の末ついにこれを攻め落としました。これによって彼は、オスマン帝国歴代スルタンはおろか、歴史上誰も成し得た事のない千年の都の征服を成し遂げたのです。 しかし、その時コンスタンティノープル市内では、この都を千年の長きに亘って護り続けて来た三重のテオドシウス大城壁を破って突入したトルコ兵たちによる凄惨な略奪が行われていました。ヨーロッパやイスラム圏に限らず、古来敵に勝利した際の略奪は、勝った兵士たちに許された「特別ボーナス」の様なものであり、この戦いにおいてもそれが行われ、メフメト2世は配下の大軍に、3日間の略奪を許したのです。 市内になだれ込んだ10万を越えるオスマン軍は、最初は激しい殺戮を行いました。