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ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』
20世紀を代表する歴史家のひとり、エリック・ホブスボームは、非常に簡単に、「歴史にセオリーは必要だ」... 20世紀を代表する歴史家のひとり、エリック・ホブスボームは、非常に簡単に、「歴史にセオリーは必要だ」と言い切ったことがある。もちろんここでホブスボームは、トインビーや最近ではハンティントンが豪快に試みたように、人類数千年の通史を総括するグランドセオリーを提示しようという意味で言っているのではない。彼にとって歴史とはあくまで現在の地点から何らかの観点をもって眺められた過去である。だがそれは、自然派文学者たちが述べる風景とは異なり、それを写実する描き手自身の問題意識をも含んだものだ。そのうえで、たとえば、20世紀を“the extreme age”として捉えることができる。 グランドセオリーを否定した上で「セオリーが必要」というホブスボームの言葉はむしろ戒めとして捉えるべきである。つまり、歴史という過去があたかも本然的に存在し、それ以外の心象映像としての可能性がないかのような描き方だ。 歴史