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『パウロの言語哲学』
再読。『オッカムの言語哲学』の著書のある清水氏が、パウロの書簡のテクストを読み込んで、言語ゲーム(... 再読。『オッカムの言語哲学』の著書のある清水氏が、パウロの書簡のテクストを読み込んで、言語ゲーム(72)を展開する。そして一般的な解釈の誤謬を提示しながら、パウロの思想とパウロを受け継いだ初期の教会の思想を追跡し、キリスト教の思想がいかにギリシア哲学のアルケーの思想を継いだものであるを示す。わかりよい一冊だ。 著者はパウロの書簡にある信(ピスティス)が、イエスにたいする信や、「保証」のように訳されているが、本来はそのような意味ではなく、神にたいするイエスの信、人間にたいする神への信、そして神が人間の信に応じる信が、この信(ピスティス)という語に含まれていることを示しており、説得力がある。 前半の言語ゲームのまとめは次のようなものだ。 (一)パウロは「イエスを信じる」ことは主張していない。イエスが信という態度をもって生き抜いたことを提示し、自分たちもイエスの信にならって、神にたいして信という
2022/06/06 リンク