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こんがらがった自意識で社会批判してるキミへ
世に溢れる社会批判は、「この社会」の否定でしかないものが多い。 否定の真意は、別のあるべき社会の消... 世に溢れる社会批判は、「この社会」の否定でしかないものが多い。 否定の真意は、別のあるべき社会の消極的な肯定である。 「こういう社会はダメで、こういう社会が良い」。そういう議論が多すぎる。 本来、社会批判をするということは、消極的な人間の肯定である。 社会を語ることは人間を語ることでしかない。 それなら最初から人間を積極的に語れば良いんだけど、そういう視座を取る勇気はなかなか持てない。 それは非常に辛い作業で、その対価として得られる言説は、あまりに心許ないからだ。 心許ない言説を産み落とせないことの言い訳が、そのまま社会批判になっていることだって少なくない。 つまり僕は、この「辛さ」、「心許なさ」は、少なくとも人間的なものだと思っている。 人間を持ち出して社会を批判するのは古いとか新しいとか、構造的に有効だとか無効だとか、そういう問題でもない。 それらの話も全て、根本には人間を消極的に肯定