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池田晶子著 『新・考えるヒント』 第14章「道徳」より - 犯罪被害者の法哲学
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池田晶子著 『新・考えるヒント』 第14章「道徳」より - 犯罪被害者の法哲学
犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考え... 犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。 善とは何か、悪とは何か。これは考えれば考えるほどわからなくなるものである。しかし、罪刑法定主義の原理が確立した現代の刑事裁判においては、このような難問を考える必要はない。悪は国家権力であることに決まっているからである。ここでは、遊ぶ金欲しさに犯罪に手を染めたこと自体の悪は棚に上げられる。 厳罰化に反対するならば、そもそも罪を犯さなければよいだけの話である。しかし、近代刑法においては、このような常識を述べることすら憚られる。もともと功利主義の思想は、倫理や善悪の探究には向いていない。近代刑事裁判の理念と犯罪被害者の要求とのすれ違いは、ここに端を発する。 池田氏は、内的に欲求されるものを「倫理」、外的に強制されるものを「道徳」と呼んでいる。以下の「道徳」という部分は、すべて