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祭りの練りは、架線の下をくぐったか? - 花の四日市スワマエ商店街
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祭りの練りは、架線の下をくぐったか? - 花の四日市スワマエ商店街
前田憲司氏の登場です。超多忙の中、時間を割いてお答えいただきました。大変ご無理を申しました。さて... 前田憲司氏の登場です。超多忙の中、時間を割いてお答えいただきました。大変ご無理を申しました。さて、架線の下を練りがくぐったか?のご返事は? この件については私も疑問に思っていて、当時を知る方に聞いておけば良かったと悔やんでいる内容です。 昭和31年9月以後の直結線(諏訪駅廃止)になって南浜田に踏切ができました。その踏切には、手動巻き上げ式の遮断機が設置され、配置されていた踏切番の職員が遮断機を上下させて手旗で電車に合図を送っていた光景を覚えています。 その後、近鉄四日市駅と市街の高架によって廃止されました。ちなみに新正の一号線との交差は当初から高架化されていて、南浜田の踏切から南にかけて、軌道が土手になって徐々に上がり、松本街道の交差手前からコンクリート製の橋脚になっていました。 戦後も、大入道や明神丸が南浜田まで来ていました。 ただ、明神丸が練り込んできた記憶は私にもありますが(昭和41