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イデオロギーとしての英語とイデオロギーを解体するものとしての英語 - 英語と書評 de 海馬之玄関
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イデオロギーとしての英語とイデオロギーを解体するものとしての英語 - 英語と書評 de 海馬之玄関
ブログ冒頭の⤴️画像:記事内容と関係なさそうな「食べ物やお料理さん系」が少なくないことの理由はなんだ... ブログ冒頭の⤴️画像:記事内容と関係なさそうな「食べ物やお料理さん系」が少なくないことの理由はなんだろう? https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/4e03beafbd5b690bed61fda9e978db7a ◆イデオロギーとしての英会話 『イデオロギーとしての英会話』とかいう本が20年くらい前、結構売れていたと思います(★)。確か、京都は寺町今出川にあった書肆で求めその書店の近所の<ほんやら洞>という喫茶店(?)で、たまたま一緒になったサークルの後輩に(まだ読んでもいないくせに)薀蓄を垂れた覚えがあります。KABU先生曰く、 ★註:イデオロギーとしての英会話 ダグラス・ラミス『イデオロギーとしての英会話』(晶文社・1976年10月) KABU: 「イデオロギーとしての英会話」ちゅうのはな、英語勉強して世界中の情報にアクセスしたろうとか、世界中の人と話し