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『ケアの倫理からはじめる正義論』を読んで~みな誰かお母さんの子ども~3 - アラサー女ハチワレの育児その他やること思うこと
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『ケアの倫理からはじめる正義論』を読んで~みな誰かお母さんの子ども~3 - アラサー女ハチワレの育児その他やること思うこと
つづき。 子育てしつつ研究に従事する林さんが自らを経済的に依存的な存在であるが故に「惨め」と評価す... つづき。 子育てしつつ研究に従事する林さんが自らを経済的に依存的な存在であるが故に「惨め」と評価するのは、ある意味「ごく自然な」ことのように思える。 というのも、現代社会は生産者・消費者として「自立」した個人を人間の単位としているからだ。その中において、子ども(依存者)を世話する“だけの”依存労働者(母)は、「家」の中に閉じこもるしかなく、社会から切り離された存在としてしか自己評価し得ないからだ。 同じように、親の介護や障碍者の世話に力を注ぐ人々は、果たしてどのように自己を評価しているのだろうか。 キテイ氏の提唱するような依存関係を基準に人間を再定義するならば、これらの世話や介護を「慈善」とか「慈愛」、あるいは「母性」といった情念のなせる業として美化するのは正当な評価とは言えないだろう。また、それは一部の人間の身の上に起こる悲劇や運命、あるいは自由な選択に基づく自己責任と捉えるのも正しくな