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「勉強ができて頭がいい」と「独創的で頭がいい」の違い - 心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学
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「勉強ができて頭がいい」と「独創的で頭がいい」の違い - 心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学
前の記事でも書いたが、「勉強ができる」ことと「独創性がある」ということは比例しない。 単なる受験秀... 前の記事でも書いたが、「勉強ができる」ことと「独創性がある」ということは比例しない。 単なる受験秀才は、頭の回転が速く記憶力が優れていて、試験勉強に労苦をいとわないだけである。 彼らは立ち止まって「なぜ」と問うことがないので、学問や創作や実務においては独創性を発揮することができない。 しかし地頭のよさは独創性の発揮にも必要である。 もし、勉強ができること、つまり偏差値が高いことが、そのまま独創性をもつ頭のよさに直結するなら、東大>京大>早慶>東北大、名古屋大>神戸大という順位で独創的天才が生まれることになるであろう。 しかし、実際にはそうならない。 芥川賞の受賞者は、早稲田>東大>慶應>>>>その他 (これは実数)その他だし、ノーベル賞は京大>>>東大(これは実質的数)である。 司法試験合格者でも早稲田>東大>慶應、中央大>京大>一橋だし。 去年、ノーベル生理学賞を取った山中・京大教授は神