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経験がない事は理解できないと思ってしまいます。例えば、AさんがXという経験をしたとします。BさんはXについて、テレビなどで見て知... - Yahoo!知恵袋
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フッサールは「デカルト的省察」で、哲学史上初めて「他我認識」の問題を取り上げ、他人のこころは見え... フッサールは「デカルト的省察」で、哲学史上初めて「他我認識」の問題を取り上げ、他人のこころは見えない、だから私たちは自分の心から、それに似たものとして感情移入し、「類推」するほかはない、といいました。 ここから「独我論」というものが始まりました。 世界に心というものは、私一つしかない、と。 デカルト・カントの時代には、自我があると言っていましたが、その自我は個別的なものでなく、普遍的なもので、「独我論」というものは問題になりませんでした。 しかも、あの時代、誰もが神の存在を信じていましたので、神はすべての人間を創造したのであり、自我とか心がただ一つとは考えられていませんでした。 フッサールの「類推説」はその後ずいぶん批判されました。 それは、私たちは自分の心はよく知っているが、他人のこころは知らないというものですが、ウィトゲンシュタインは私たちは他人の心は知ることができるが、自分の心は知る