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モーツァルトと日本人 - 黌門客
家でレジュメ作りに勤しむが、形式ばかりに拘泥してしまって、なかなか思い通りにゆかぬ。 井上太郎『モ... 家でレジュメ作りに勤しむが、形式ばかりに拘泥してしまって、なかなか思い通りにゆかぬ。 井上太郎『モーツァルトと日本人』(平凡社新書)読了。日本におけるモーツァルトの作品、そして「モーツァルト論」の受容史。パウル・ベッカー 河上徹太郎訳『西洋音楽史』(1941)が日本人のモーツァルト観を変容させ、むしろ戦後において日本人による「モーツァルト論」が百出したという話。著者は、アルバート・アインシュタイン 浅井真男訳『モーツァルト その人間と作品』(1961)の「訳者あとがき」や、アンリ・ヴァンジョン・ゲオン 高橋英郎訳『モーツァルトとの散歩』(1964)の「訳者あとがき」を引いて、モーツァルトの調べの中に存する「通俗的見解によっては説明しえない『或るもの』」(浅井)=「現代のわれわれが失ったある種の音調」(高橋)を探るために、「戦後の日本人がモーツァルトに熱中した」(p.189)のだ、と結論して