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褒めることのむずかしさ - イチニクス遊覧日記
何かの「良さ」を人に伝えようとするときに、「好き」という言葉を選ぶことが多くなった。もしくは「良... 何かの「良さ」を人に伝えようとするときに、「好き」という言葉を選ぶことが多くなった。もしくは「良いと思う」とかね。 この「良さ」の判断基準は「私」にありますよー、ということを示しておきたいとき、好き、という言葉はとても便利だ。 例えてみる。 「私は焼肉が好き」 これはあなたにとっての焼肉がどうであるかは含まない。私は私の焼肉を好きだ、っていう、それだけ。しかし、 「焼肉は良いものだ」 これだと、私だけでなく、世界にとって焼肉の良さをアピールしているようになる。なりませんか? 少なくとも、「おまえも良いっておもうだろ、な?」というような、迫ってくる感じがある。強い気がする。そこで、 「焼肉は良いものだと(私は)思う」 としてみると、「良さ」は再び私に結びつけられる。 → しかし、そうやって安易に「好き」という言葉を選ぶのは、何か違うような気がしている。言葉の手綱を握っていたい気持ちはあるけれ
2007/10/12 リンク