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柄谷行人を読む(32)『内省と遡行』『隠喩としての建築』
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柄谷行人を読む(32)『内省と遡行』『隠喩としての建築』
続いて「隠喩としての建築」と「形式化の諸問題」です。「隠喩としての建築」は「群像」に1981年1月から... 続いて「隠喩としての建築」と「形式化の諸問題」です。「隠喩としての建築」は「群像」に1981年1月から8月まで連載された論稿です。5つの章から構成されていますが、内容的には第二章までの前半部と、第三章以降の後半部に分けることができます*1。もう一方の「形式化の諸問題」は、前者に引き続いて同年9月に「現代思想」に掲載されたもので、「隠喩としての建築」の後半部を再編集したものです*2。これらは短期間に連続して発表されたものであり、ひとまとまりの論稿群とみなすこともできますが、読解という観点からは「隠喩としての建築」前半部、同後半部、および「形式化の諸問題」という3つの部分に区切るほうが適当でしょう。 要約:「隠喩としての建築」 第一章 建築への意志 隠喩としての建築は、混沌とした過剰な生成に対して、一切自然に負うことのない秩序や構造を確立することである。 西洋的な知は、ある危機を回避するために