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勘解由小路光宙 - Wikipedia
勘解由小路 光宙(かでのこうじ みつおき)は、江戸時代末期の公卿。広橋胤定の末子で母は藤波寛忠の娘... 勘解由小路 光宙(かでのこうじ みつおき)は、江戸時代末期の公卿。広橋胤定の末子で母は藤波寛忠の娘。勘解由小路資善と日野資矩の娘の養子。室は中山忠頼の娘。 経歴[編集] 文政元年(1818年)6月に資善夫妻の養子となり、翌月叙爵を受ける。翌文政2年(1819年)に元服して昇殿を許されて遠江権介に任ぜられる。中務権大輔、皇太后宮少進などを歴任して天保12年(1841年)12月22日に従三位に叙せられる。弘化2年(1845年)に正三位に叙せられるが、文久2年(1862年)に正三位非参議のまま55歳で死去。男子がいなかったため、裏松恭光の四男である資生が光宙の婿養子として後を継いだ。 天保2年(1831年)から死去の年までの30年間の日記(『光宙卿記』)の存在が知られている。 系譜[編集] 父:広橋胤定 母:藤波寛忠の娘 養父:勘解由小路資善 養母:日野資矩の娘 妻:中山忠頼の娘 生母不明の子女