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小畑実 (歌手) - Wikipedia
1937年、韓国人テノール歌手・永田絃次郎に憧れて16歳で日本に渡り、日本音楽学校に入学。苦学しながら... 1937年、韓国人テノール歌手・永田絃次郎に憧れて16歳で日本に渡り、日本音楽学校に入学。苦学しながら声楽を学んで1941年に卒業すると、その後は江口夜詩の門下となる。この頃に下宿先の大家で秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったのが小畑姓と秋田出身を称した理由とされる。なお、イクの息子である小畑達夫はいわゆる共産党リンチ事件で死亡している。 1941年2月にポリドールから『成吉思汗』でデビューし、朝鮮半島出身を隠して出身地を秋田県としていた。後にビクターへ移籍し、1942年に藤原亮子とデュエットした『婦系図の歌(湯島の白梅)』が出世作となる。1943年には同じく藤原亮子とのデュエットによる『勘太郎月夜唄』をヒットさせ新進気鋭の歌手として注目を浴びる。 終戦後には活躍が本格的となる。テイチク→キング→コロムビア→古巣・ビクターと所属会社を転々としたが、甘いクルーナー唱法で『小判鮫の唄』