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烏山藩 - Wikipedia
戦国時代、烏山城は那須地方の名族那須氏の拠点であった[1][2][3]。天正18年(1590年)、那須資晴は豊臣... 戦国時代、烏山城は那須地方の名族那須氏の拠点であった[1][2][3]。天正18年(1590年)、那須資晴は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、大名としての存続が認められず改易された。ただし、資晴やその子の那須資景は知行地を与えられて武家としての命脈を保ち、資景は江戸時代はじめに大名に復帰することとなる(那須藩)。 那須氏が改易されたのち、ごく短期間(2か月程度という)ながら織田信雄が2万石で烏山城に入ったことがある[4]。尾張・伊勢・伊賀120万石の大名であったところから、秀吉の怒りを買っての大幅な減封であり[4]、配流であった[2]、あるいは配流同然であった[4]ともされる。信雄は烏山で剃髪して常真と号したが、天正19年(1591年)に秋田への転封を命じられた[4]。天性寺には、信雄が残したものと伝えられる織田信長の位牌がある[4]。 天正19年(1591年)、成田氏長が烏山城主