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直江信綱 - Wikipedia
直江 信綱(なおえ のぶつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長尾上杉氏の家臣。越後国... 直江 信綱(なおえ のぶつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長尾上杉氏の家臣。越後国山東郡与板城主。 生涯[編集] 元は総社長尾家の出身で、長尾顕方の九男とも、長尾景秀の次男ともいわれる[注釈 1]。上杉家の重臣・直江景綱の娘・船と結婚し、婿養子となって直江与兵衛尉信綱と名乗る。天正5年(1577年)3月5日に養父・景綱が死去すると、直江氏の名跡と奉行職を継ぎ馬廻として上杉謙信に仕えた。天正5年(1577年)9月23日、手取川の戦いに参戦。 天正6年(1578年)の謙信急死後に勃発した御館の乱では上杉景勝方に付いて、景勝と共に春日山城に籠る一方、本拠地の与板城に残る直江氏一族や配下の与板衆を動員して周辺の上杉景虎派の討伐を進めた。この功により、乱後に新当主となった景勝のもとで重用されたが、天正9年(1581年)9月9日、重臣・河田長親の遺領を巡る諍いにより春日山城内で会談中の