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「パンの祖」江川坦庵の兵糧パン - To KAZUSA
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「パンの祖」江川坦庵の兵糧パン - To KAZUSA
日本に初めて洋式のパンが現れたのは、応仁の乱後のポルトガルとの南蛮貿易の時で、パンの語源もポルト... 日本に初めて洋式のパンが現れたのは、応仁の乱後のポルトガルとの南蛮貿易の時で、パンの語源もポルトガル語のpãoと考えられています。 米食が浸透した日本にはパン食は広まらず、更に天正15年(1587)豊臣秀吉のバテレン追放令で、パンが姿を消すことになります。 その後の江戸時代でもパンが作られたのは長崎の出島のオランダ人向けで「白カステラ」と呼ばれ、西洋文化の域を出ません。 江戸時代後期の天保11年(1840)清とイギリス間でアヘン戦争が勃発し、日本でも国防の危機感から西洋技術を取り入れる動きが強まります。 まず長崎出身の洋式砲術家の高島秋帆(しゅうはん)が、腐りやすい米飯に代わる兵糧として、乾パンに着眼したともされます。 秋帆は韮山代官江川英龍(坦庵/たんなん)の西洋砲術の師です。 天保13年(1842)4月2日付けで江川英龍が天城・江梨山へ鹿や猪の狩猟の際に試しにパンを携帯したらとても便利