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大内義興は、なぜ異国の町で細川氏と事を構えたのか?【戦国武将の話】 | ラブすぽ
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日明貿易による莫大な利権を争って応仁・文明の乱の序盤は東軍が優位に進めていたが、西国からの援軍の... 日明貿易による莫大な利権を争って応仁・文明の乱の序盤は東軍が優位に進めていたが、西国からの援軍の到来にともない西軍が盛り返し、ほぼ互角の形勢となった。この援軍のなかでも周防(すおう)の大内政弘(おおうちまさひろ)の存在は大きく抜きん出ていた。 『経覚私要鈔(きょうがくしようしょう)』という興福寺僧の日記によれば、政弘が率いてきたのは周防・長門(ながと)・豊前(ぶぜん)・伊予(いよ)など8カ国の武士数万人。政弘の後を継いだ長男・義興(よしおき)はその勢力範囲をほぼ受け継ぎ、明応2(1493)年には京都から締め出された10代将軍足利義材(義稙)を山口に迎え、細川政元死後の永正5(1508)年には上洛を決行。義稙を将軍に復帰させるとともに、それから10年間京都にあって、細川家分流の細川高国(たかくに)とともに幕府権力を支え続けた。 同じ細川家でも京兆家とは終始、敵対もしくは競合関係にあり、大永3