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「果物食堂からパーラー」日本橋千疋屋総本店の185年 | 名家のルーツ | 森岡浩 | 毎日新聞「経済プレミア」
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「果物食堂からパーラー」日本橋千疋屋総本店の185年 | 名家のルーツ | 森岡浩 | 毎日新聞「経済プレミア」
「サムライ弁蔵 水くわし売り出し百七十五年」という不思議なタイトルの社史がある。「水くわし」は現... 「サムライ弁蔵 水くわし売り出し百七十五年」という不思議なタイトルの社史がある。「水くわし」は現代仮名遣いに直すと「水菓子(水がし)」で、果物のこと。「果物を売り出して175年」――これは2009年に出された東京・日本橋の高級果物店の老舗「千疋屋(せんびきや)総本店」の社史だ。 副業として始めた果物販売 江戸時代の大きな商家の祖は武士が多く、千疋屋の創業者も武士だ。それが「サムライ弁蔵」こと大島弁蔵。ただ、藩士や幕臣ではなく、槍術(そうじゅつ)道場の道場主だった。その先祖は、加賀藩の前田家家臣から紀伊藩の大島流槍術指南役となった大島吉綱で、江戸時代後期の弁蔵は武蔵国埼玉郡千疋村(埼玉県越谷市)で槍術道場を開いていた。 しかし、当時は槍術指南だけで食べていくのは難しかった。そこで、千疋村が古利根川(現在の中川)沿いだったことから、副業として1834(天保5)年に千疋村の果物を船で江戸に運び、