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時代によって千変万化する足利尊氏に対しての評価 (後編) : この世は夢のごとくに候
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時代によって千変万化する足利尊氏に対しての評価 (後編) : この世は夢のごとくに候
5月4 時代によって千変万化する足利尊氏に対しての評価 (後編) カテゴリ:足利尊氏南北朝時代・太平記 ... 5月4 時代によって千変万化する足利尊氏に対しての評価 (後編) カテゴリ:足利尊氏南北朝時代・太平記 (前編から続く) 戦前の日本では、楠木正成は「忠臣の鏡」「大楠公」として過剰なまでに高く評価され、逆に、その正成を討った足利尊氏は大極悪人と解される事が多かったため、明治時代に於いても、常に正成は高く評価され、尊氏は逆賊視されていたのであろうと思っている人が多くいますが、少なくとも明治時代前期から中期にかけての時期は、実はそうでもありませんでした。 明治期にヨーロッパの近代歴史学が入ってくると、史学界では太平記の史料的価値が疑われるようになったため、正成は一般の庶民には尊敬されていたものの、史学の分野に於いては正成の評価は下がっていきます。 東京帝国大学に初めて国史科が出来た頃、重野安繹(しげのやすつぐ)、久米邦武(くめくにたけ)、星野恒(ほしのひさし)という3人の博士が教授になりました