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宥しと受容が生ずる経路|ニー仏
昨日の記事では「憎い相手に自分が似てしまう」ということについて、それはそもそも最初に相手を憎悪し... 昨日の記事では「憎い相手に自分が似てしまう」ということについて、それはそもそも最初に相手を憎悪した時点で、自分の中にある嫌な部分(影)を、その他者の姿に見てしまっていた可能性もあるのではないか、という話をした。 その上で、だからといって「他者を責めるな」という主張をしたいわけではない、という留保も付しておいたのだが、これにはエントリの中で述べた「健全な批判は必要だから」ということ以外にも、もう一つの別の理由がある。すなわち、「他罰はよくないからといってやめた人が次にすることは、たいていは自罰だから」ということだ。 先回りして書いておくが、もちろん私はこのように言うことで、「自身の欠点を直視して、それを改善しようと努めること」を否定しようとしているわけではない。そうではなくて、私は「自身の欠点を直視し改善すること」と、「憎む相手を他者から自分に変えて罰すること」は、基本的には区別したいと考え