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デカルトとは無関係で
デカルトの哲学を歴史的に理解することではない…ということですが、デカルトの言うことを現代に当てはめ... デカルトの哲学を歴史的に理解することではない…ということですが、デカルトの言うことを現代に当てはめて考えてみると結構面白いと思ったので、少し考えてみました 「全てを疑ってみたときに、それでも疑いきれないこと…それこそが真理だ。すなわち、それは疑っている自分がそこに存在しているということ…。」 これが、デカルトのいう「我思う、故にわれあり」ですよね。 これの私の現代風解釈はこうです。 この世界は本当に存在すると言い切れるのだろうか…?本当はこの世界なんて存在しないのかもしれない。自分でさえも誰かの見ている夢の中の登場人物の一人にすぎないのかもしれない…。もしかしたら、この世で起こっている全てのことは精密にプログラムされたコンピューターの中の出来事にすぎないかもしれない。 そんな風に、全てのものを疑っていったときに、ふと気が付く。 …でも、もし、すべてが夢や、プログラムされたものであるとしたら