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南雲忠一の自決~日本海軍は人事で負けた?
北太平洋のハワイ諸島北西・ミッドウェイ島 今日は何の日 昭和19年7月6日 南雲忠一がサイパンの司令部... 北太平洋のハワイ諸島北西・ミッドウェイ島 今日は何の日 昭和19年7月6日 南雲忠一がサイパンの司令部で自決 昭和19年(1944)7月6日、南雲忠一がサイパンの司令部において自決しました。海軍大将で真珠湾攻撃時の第一航空艦隊司令長官として知られます。 その空母を基幹とする艦隊は南雲機動部隊と呼ばれ無敵を謳われましたが、ミッドウェーの大敗で愚将とも評されます。果たして実像はどうであったのでしょうか。 水雷のプロだった南雲忠一 南雲は明治20年、旧米沢藩士の南雲周蔵の息子として、山形県米沢市信夫町に生まれました。6人兄弟の末子です。日本海海戦が行なわれた明治38年(1905)、18歳で海軍兵学校36期に入校。明治41年(1908)、兵学校を191人中、7番の成績で卒業しました。 大正9年(1920)、海軍大学校甲種(優等)卒。主に水雷畑を歩みます。艦隊派(軍縮条約反対派)の一人であり、ワシン