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魏書に潜む男たちの戦い - SOMoSOMo
いわゆる邪馬台国の時代、出雲伝承によると日本は西の物部・豊連合王国と東の磯城王朝が対立していまし... いわゆる邪馬台国の時代、出雲伝承によると日本は西の物部・豊連合王国と東の磯城王朝が対立していました。都はひとつではなく、都万と大和(この時は和邇)にあったことになります。 それでは今回は外から見た和国の様子を見てみたいと思います。中国の史書、三国志の魏書に記された邪馬台国時代を伝承に沿って辿ってみましょう。 女王国から北の地には一人の統率者を置いて諸国を取り締まっている。この統率者は常に伊都国(北九州)に駐屯し、諸国は畏れはばかっている。〈中略〉帯方郡の使いが和国に行くときはみな、港で荷物をあらため、文書や贈り物に誤りがないかを確かめてから女王に差し出す。不足や食い違いは許されない。 豊玉姫(ヒミコ)は魏の使者が自分の住む都(実際には都万国)に来させないようにして、伊都国を通してやり取りし、ヤマタイ国が大和にあるように見せかけていました。 魏より前の漢の時代、大和国の大王が使節を派遣してい