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80年代文学史論 第2回――庄司薫論(2) - 感情レヴュー
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承前http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070922 自分を取り巻く世界に向けて不平不満をぶつけていた薫。そんな... 承前http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070922 自分を取り巻く世界に向けて不平不満をぶつけていた薫。そんな彼に対して、世界の中から痛み――これはオマエの痛みだ!――を告げに到来した女の子。 かくして分裂の痛みを引き受けることになった薫は、女の子の買い物にしばし付き合う。二人で銀ぶらしながら、薫の足を踏んで申し訳ない気持ちでいる女の子をなだめる薫だが、なだめられているのはむしろ薫である。個人が世界の中で生きることの分裂・矛盾した痛みを告げ知らせた女の子は、薫にとって世界との接点をギリギリとりもつ女の子でもあるわけだ。赤頭巾ちゃんは実は狼でもあったのである*1。 +++ 『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969)で庄司薫氏が問題にしたこと。それは、60年代的な価値と70年代的な価値の関係、言い換えれば、集団の中において個人を位置づけることで世界がまるく収まった時代(連帯主