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安倍談話とヴァイツゼッカー演説「荒れ野の40年」との違い
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安倍談話とヴァイツゼッカー演説「荒れ野の40年」との違い
『荒れ野の40年』(1985)ヴァイツゼッカー <抜粋> ・今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、... 『荒れ野の40年』(1985)ヴァイツゼッカー <抜粋> ・今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過