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地名をあるく 7.多和山峠 - 高梁市公式ホームページ
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地名をあるく 7.多和山峠 - 高梁市公式ホームページ
有漢町の西の端、北房町(現・真庭市)との境に「多和山峠」があります。 東の陣が畝山(海抜四八三m)... 有漢町の西の端、北房町(現・真庭市)との境に「多和山峠」があります。 東の陣が畝山(海抜四八三m)と西の多和山(四四五m)に挟まれた「迫」に当る海抜約三五〇mの位置にあります。峠への登り口には大谷の集落が点在し、南西に向かって大谷川が流れていて、巨瀬町で有漢川に合流しています。この地は高梁川と旭川の分水嶺の一つになっています。 峠のふもとにある大谷地区は、江戸初期には下有漢村の枝村としての大谷村でした。後には下有漢中村の枝村として記録されています。 元和三年(一六一七)から松山藩領として、池田氏や水谷氏の支配を受け、後の延享元年(一七四四)から石川氏の支配となり、石川氏が伊勢亀山へ転封されると、中津井陣屋の支配を受けて幕末を迎えています。 「多和山峠」は古くから落合往来の交通の難所、「多和山越え」として知られ、多くの人々が往来し、物資の輸送も活発に行われました。尾根越えの道を登り切ると向こ