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那珂湊反射炉跡(附那珂湊反射炉資料25点)|茨城県教育委員会
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那珂湊反射炉跡(附那珂湊反射炉資料25点)|茨城県教育委員会
水戸藩の反射炉は、鉄製の大砲鋳造を目的として、安政年間に2基建造されました。反射炉とは、大型の金属... 水戸藩の反射炉は、鉄製の大砲鋳造を目的として、安政年間に2基建造されました。反射炉とは、大型の金属溶解炉のことです。当時、全国に公営・民営あわせ十数箇所建造されたといわれています。しかし、元治元年(1864)の藩内抗争(元治甲子の乱又は天狗党の乱という)の際、破壊されました。やがて昭和8年(1933)頃から復元の動きが起こり、昭和12年(1937)12月、吾妻台の跡地にほぼ原形どおりに復元されました。 水戸藩は、徳川斉昭(1800~60)が嘉永年間に至って藩政への関与を許されるようになると、兵器の充実、とりわけ従来の銅製に変えて鉄製大砲鋳造の必要性を痛感するようになり、南部藩士の大島高任(総左衛門)らを反射炉建設の技術者として採用しました。建設地としては吾妻台が選ばれました。地盤の強固なこと、水戸城下3里の近郊で経済的にも廻船業で賑わう藩内随一の繁栄地であること、原料の鉄と燃料の石炭の調達