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村上隆×椹木野衣「アート憂国放談」(『芸術新潮』2012.5月号) - 同心町日記
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村上隆×椹木野衣「アート憂国放談」(『芸術新潮』2012.5月号) - 同心町日記
村上隆について。確か、以前は近代化以前の日本の美術には「ヒエラルキー構造はない」と発言していたと... 村上隆について。確か、以前は近代化以前の日本の美術には「ヒエラルキー構造はない」と発言していたと思うのですが、今度は一転して、「日本の歴史において芸能、芸術の徒は非人であり、人ではないものに分類されているにもかかわらず、人間としてのアイデンティティを奪還せよというような近代西欧の教育思想のみの肥大が問題であった」と、身分制によるヒエラルキー構造を前提とした発言をされているようなので、この発言について少し考えてみたいと思います。 村上による「日本の歴史において芸能、芸術の徒は非人であり」という発言は、網野善彦(『中世の非人と遊女』)の名を借りて語られていますが、網野がいう「非人」というのは、要約すれば、本来は天皇や神仏に直属する地位にあった人たちのことです。つまり神仏に仕える奴婢。「神奴」「仏奴」と、「聖別」されていた人たちのことです。彼らは聖なる存在に仕える身分であったので、一般の平民たち