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「自由連合党史」
平成二年二月当時、衆議院議員の選挙区のうち、日本国内で唯一の小選挙区があった。小選挙区とはその選... 平成二年二月当時、衆議院議員の選挙区のうち、日本国内で唯一の小選挙区があった。小選挙区とはその選挙区においてたった一人しか当選しないという制度である。たった一人しか当選しないので、数名が当選する中選挙区とは違い、その戦いは熾烈なものがある。自民党一党支配のこの時代、自民党の公認がなければ当選することは不可能に近い。そこに無所属で当選したのが徳田虎雄という男であった。 自民党田中派~竹下派で前職・保岡興治を下しての当選である。弁護士でもある保岡はロッキード事件で田中角栄の弁護団にいた。世の中は、自民党が政権与党であるのが当たり前、総理大臣になるには自民党の総裁でなければならない。自民党総裁になるには田中角栄、竹下登の派閥に気に入られなければいけないという時代であった。 その選挙前、平成元年十一月二十五日、徳田は保守政治の改革派として、無所属新人である衆議院候補の政策グループを旗揚げし永田町で