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国策の果て 終わらぬ苦難/(8完)2度の強制避難/開沼幸一さん/伝える 戦後69年の夏 | 河北新報オンラインニュース
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国策の果て 終わらぬ苦難/(8完)2度の強制避難/開沼幸一さん/伝える 戦後69年の夏 | 河北新報オンラインニュース
資源獲得とエネルギー政策。二つの国策に翻弄(ほんろう)され、居住地から2度も強制的に追われた人々... 資源獲得とエネルギー政策。二つの国策に翻弄(ほんろう)され、居住地から2度も強制的に追われた人々がいる。 福島県飯舘村の農業開沼幸一さん(75)もその一人。旧満州から引き揚げ、戦後入植した同村の豊栄(ほうえい)集落は福島第1原発事故で避難区域になり、離郷を余儀なくされている。 山形市出身の父は満州開拓団に加わった。開沼さんは現在の中国黒竜江省ジャムス市で生まれ、敗戦の時は6歳。大連の日本人収容所で1年間過ごした。 「収容所では、一日に黒パン一つしか配給されなかった。中国北東部の冬の寒さはものすごかった」 幼子の心に記憶が焼き付いている。 旧満州から逃れる途中、体力のない者が次々脱落した。5歳の弟と、生まれたばかりの妹も命を落とした。父はシベリアに抑留され、1946年12月、長崎県の佐世保港で日本の土を踏んだときは母と2人きりだった。 48年秋に帰国した父は、山形県の仲介で豊栄集