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「父性の不在」論・続
前回(昨年6月)は、「対話の現象学への一つのアプローチ -- 「父性の不在」(森下香枝ルポ)を手がか... 前回(昨年6月)は、「対話の現象学への一つのアプローチ -- 「父性の不在」(森下香枝ルポ)を手がかりに --」という話をさせていただきました。そこでは、新潟少女監禁、京都てるくはのる、豊川刺殺、佐賀バスジャックといった事件の背景に「父性の不在」を指摘した『文藝春秋』森下ルポと、その拠り所の一つになっているかも知れない町沢静夫氏の『心の壊れた子どもたち』を紹介しつつ、「対話」能力を獲得するにあたっての「母性と父性」の役割を示唆するにとどめましたた。今回は、そういう議論の背景になっている文献のいくつかを紹介したいと思います。少し「私の読書日記」風の報告になることをお許しください。 【Ⅰ】加藤尚武『子育ての倫理学』(丸善ライブラリー、2000年11月) 先日(2001年1月16日)、朝日新聞夕刊「テーブルトーク」というコラムに、加藤氏の『子育ての倫理学』が紹介されていました。「「厳しく」の前に