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ヘルムート・フェッター「初期ハイデガーにおける「世界」概念」(浜渦辰二 訳)
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ヘルムート・フェッター「初期ハイデガーにおける「世界」概念」(浜渦辰二 訳)
ヘルムート・フェッター 浜渦 辰二(訳) 1、初期ハイデガーにおける「世界」と「存在」の関係への問... ヘルムート・フェッター 浜渦 辰二(訳) 1、初期ハイデガーにおける「世界」と「存在」の関係への問い ハイデガーの最初の弟子の一人であるガダマーは一九八一年、ハイデガーにおける宗教的次元に関する論文のなかで次のように述べている。「フライブルクから学生達がやって来たすでに一九二〇/二一年当時、彼らはフッサールよりも多くハイデガーについて、しかも彼の極めて個性的で深遠かつ斬新な講義について報告していた。その頃ハイデガーは例えば『世界する〔=世界としてある〕(Es weltet)』といった用語を使っていた」(1) 。そのさいガダマーは、ハイデガーの講義『宗教現象学入門』を挙げている。しかし、この「世界する」という表現はすでに初期フライブルク時代の講義の一つ、一九一九年の戦時短縮学期に、戦争に参加していた学生のために特に行われた講義『哲学の理念と世界観の問題』のなかにも見出される。他方で、若きハイ