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依智から寺泊~塚原三昧堂 高橋俊隆
○依智から寺泊まで(一) 鎌倉時代の主な街道は、奈良・平安時代に造られた街道とほぼ同じルートといい... ○依智から寺泊まで(一) 鎌倉時代の主な街道は、奈良・平安時代に造られた街道とほぼ同じルートといいます。奈良時代に朝廷が日本全土を支配すると、税(租・庸・調)を集めるためや、軍隊を送るために道路を整備しました.とうじの道路はまだ計画道路であり、役所のある国府と国府のあいだや、大きな村や町などの集落を直線で結びました。前にものべたように、約一六㌔ごとに駅を作り、朝廷の命令や地方でおきた戦などの情報を伝えるため,駅には決められた数の馬を用意し、急使はその馬を乗りついで伝達したのです。 とうじの街道を模索する手がかりに「古地図」があります。そのなかでも、奈良時代の行基が作ったとされる「行基図」という日本地図が有名です。山越から若狭・越前・加賀・越中・越後・佐渡と、平野を縦断した雑駁な道程が書かれ、完成度が高いと評価されています。越後は七世紀後半期の分図によって誕生したといわれ、「こしのみち」と呼